宮古島ドットコムブログ

「宮古島ドットコム」のスタッフが沖縄本島から南西へ約330キロのところに位置する宮古島のステキな日々をお伝えします
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公設市場に歴史あり−番所だった編
こんにちわ。
公設市場からM子店長です。
さて、沖縄は梅雨が明けましたが、蒸し暑い毎日が続いています
M子店長、早くも夏バテ気味

さて、さて、今回は公設市場の歴史について紹介しますね
最近、市場肉屋のK美さんが、「市場は元番所だったらしいよ。調べてみるといいかも」と教えてくれました。
M子店長、恥ずかしながら「番所って何」と思い、早速調べてみると…、

「番所(ばんしょ)とは、警備や見張りのために設置された番人が詰めるために設けられた施設・・・琉球王国においては、近世期に地方機関である間切を統治する役所のことを指した」(Wikipedia(ウィキペディア)より

また、『平良市史 第二巻通史編供弊鏝緤圈法戞1981年発行、平良市史編さん委員会編集)によると…

「下里公設市場(現宮古島市公設市場)は明治末期、下里村番所跡が平良村役場となり、役場移転後に自然発生的にうまれた。下里や久松はじめ近郊農業村から鮮魚や芋、野菜、肉、豆腐売りでにぎわった。・・・
戦後しばらくして平良市(現宮古島市)が管理するようになり、1945年12月、木造建の公設市場が建てられたが、1968年11月、隣接する商店の火災から類焼した。1969年3月、現在の鉄筋コンクリート二階建の公設市場が建設された」

と記載(一部抜粋)されています。
当時は、南市場(現公設市場)、北市場の二つの公設市場と一つの私設市場があったそうですよ。
その後、旧公設市場は、建物の老朽化がすすみ2007年9月に閉鎖され、解体されました。

★宮古島ドットコムブログ(2007.8.2投稿)「下里公設市場」来月閉鎖の記事→
http://blog.miyacojima.com/?eid=638915




(旧市場の前に並ぶ、パラソル傘が懐かしい〜)

公設市場に歴史ありですね
旧市場は、約130の店舗があったとのことですよ〜
ひぇ〜、今の十倍の数
戦後は、「島の台所」と呼ばれたそうですから、物資を求めて島中から集まったのでしょうね〜。
また、いわゆる「ヤミ市」と呼ばれている取り引きもされていたのではないでしょうか。
当時を知る方に聞くと、濁して応えます〜(苦笑)
とにもかくにも!
旧市場を知っている、利用していた、働いていた島の方々は、誰もが口を揃えて活気があったと胸をはって仰いますね。


また、同編には商店街と通り会」のことについても!

「平良のまちの商店街はコの字型に発達した市場通り、西里通り、下里通りの三通りに代表される。西里通りと市場通りの接点(現日本生命の四辻)を中心に明治二十年代ごろからおもに那覇の寄留商人によって店が建ち始めた。
明治末期から大正初期にかけて鹿児島や大阪、和歌山など県外寄留商人も進出、大正初期にはほぼ市場通り、西里通りとも形成されている。
第二次世界大戦でほとんど壊滅したが、戦後の復興も早かった。現在ほとんどが二〜三代目で、父子相伝の経営でしめられている。」

なるほど〜
那覇や本土からもビジネスチャンスを求めて来島していたんですね
市内の方で、宮古島の苗字とは違う変わった苗字の方がいたり屋号をつけたりしていますよね。
もしかしたら、寄留商人の流れを汲んでいるかもしれません
また、M子店長が今までお会いした移住者の方たちは、関西系の方たちが多かったような気が…。
商人(あきんど)気質の関西人のDNAが、関西の方を引き寄せているのでしょうか〜。
と、妄想は膨らみますが

さて、お次は学生による市場のレポートを紹介します









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